架空の症例(エピソード5)
2026年05月27日
エピソード5 「誰かが私をのぞいている」
症例
優花、18歳女性。高校3年生。
幼少期の優花は、寡黙で手のかからない子どもだった。 一人でいることを好み、いつも少し離れたところから周囲をじっと眺めていた。その様子はまるで、部屋の片隅に置かれたフランス人形であった。
優花の父親は、厳格かつ几帳面な性格で、地元で診療所を開く開業医だった。 自然科学のみが真の学問だと固く信じて、文学や芸術を暇人の道楽だと蔑んでいた。 家のなかでは父の言葉が絶対であり、母親は専業主婦として家事に専念し、何事も夫の言いなりだった。 そんな父親だったが、優花が幼ない時分は一人娘を猫のように可愛いがった。
中学にあがるころには、優花は真面目で大人しい性格に育っていた。 定期試験ではいつも上位の成績をおさめ、父はそれを当然のことのように受けとめていた。
高校は、地元の進学校に入学した。 そのころ優花は、道行く男性がみな振りかえるような美少女に成長しつつあった。 だが、その顔にはいつも、年ごろの娘らしからぬ憂いの影がさしていた。 というのも、学年があがるにつれて、優花の成績は見る見るうちに下降したのだった。 模試での成績が落ちるたびに、父の機嫌は目に見えて悪くなっていっ た。 夕食の席ではきまって優花の成績や生活態度が父の口にのぼり、優花はうつむいて食事も喉に通らなかった。
ある日の下校途中、優花は「見知らぬ男に待ち伏せされた」と青ざめた顔で帰宅した。 それ以来、外出するたびに「誰かに見られているかも知れない」という落ちつかない不安に襲われるようになった。 はじめのうちは「気のせいだ」と自分に言い聞かせていた。
春になって、優花は高校3年生に進級した。 受験勉強のストレスは日ごとに重くなり、そこに「国立大学の医学部に行け」という父からの強いプレッシャーが加わった。
夏が過ぎ秋の深まりとともに、優花の不安ははっきりとした形をとりはじめた。 「自分の部屋に盗聴器が仕掛けられている」「街じゅうに監視カメラが張りめぐらされている」と、優花は本気で信じこむようになった。 テレビをつければ、朝のNHKニュースでアナウンサーが自分のことを噂していた。 一人で部屋にいても、沢山の人間で「お前はダメだ」などと優花を非難する声がコーラスのように響いてくる。 頭のなかで考えたことがそのまま声になって響き、周囲の人にも筒抜けになっている――優花はそう怯えるようになった。
冬が来ると優花は、自分の部屋の窓をカーテンで覆い、さらにその上から段ボールで隙間なく目張りした。 ついには部屋から一歩も出なくなり、食事も、母がドアの前に置いたものを、誰もいなくなってから取りこむだけになった。 父が部屋の前で何度呼びかけても、ドアの向こうからは「ブツブツ」と優花の低い独り言だけがとぎれとぎれに聞こえるだけだった。
