架空の症例(エピソード3)
2017年12月26日
エピソード3 「こんなにつらい人生ならば、死んでしまいたい」
症例
健一、53歳男性。地方公務員。 特に秀でたところがあるわけではなかった。 顔面と右腕には、幼いころ天ぷら油をかぶってできた火傷の瘢痕が今でも残っていた。 運動も苦手で、駆けっこではいつもビリだった。 取り柄といえば、真面目で穏かな性格だけだった。 高校を卒業したあと、なんとか障害者枠で地元の区役所に就職することができた。
30歳のときに職場で知り合った女性と結婚し、一人娘のN海が産まれた。 「自分と結婚してくれる女性などいるはずがない」と思っていた健一は、初めて幸せというものを知った。 間もなくして健一の家は、妻と娘の笑い声がいつも響くようになった。 それから20年あまり、平凡だがささやかな喜びに満ちた人生を送っていた。
人生の転機が忍びよってきたのは、50歳を過ぎたころだった。 1年前に妻の乳房に癌が見つかった。 既にリンパ節に転移しており、治癒は到底期待できなかった。 妻は「死にきれない」と何度も言いながら、半年後に息を引きとった。
「ステージ4にしては頑張ったほうだよ」
健一が病院をあとにするとき、背の高い白衣の男が若い看護師につぶやくのを聞いた。
妻の死から数ヶ月が過ぎた真冬のある日のこと。 警察からの電話を受けたとき、健一は何のことだかさっぱりわからなかった。 その日の朝、N海が通勤電車に飛びこんで命を断った。 N海は就職してからなかなか仕事を覚えられず、上司のB男の理不尽な振舞いにも悩んでいた。
「ちっ、この忙しいときに」
B男は、部下の自殺を聞いたとき職場でそうつぶやいたという。 健一は、そのことを人伝てに聞いた。
ごく親しい身内だけでささやかな葬式をあげた。 生前ふくよかだった娘の身体は、ものの30分もしないうちに、炎に焼かれて灰色の骨だけになった。 健一は、長いあいだ無言で灰を見つめていた。 見かねた姉が、手際よくN海の骨を拾って骨壺におさめた。
1週間後に忌引から職場に戻ってきたとき、役場の同僚たちは健一の姿をみて驚いた。 顎には雑草のような無精髭が生え、目は死んだ魚のように澱んでいた。
健一が仕事から帰宅しても、家の中はひっそりと静まりかえっていた。 空家のような自宅で、一日中ぼーっとしていた。 何も食べる気がせず、御飯を口に入れても砂を噛んでいるようだった。 布団に入ると毎晩のように幼いころの娘が枕元にあらわれた。 小学校にあがるとき、娘はミッキーマウスの高価なランドセルを欲しがった。 そのランドセルを買ってあげなかったことを、悔んだ。
それから数週間が経ったある日。 勤め先から「1週間も無断欠勤している」という連絡を受けた姉が、あわてて健一の様子を見にきた。 玄関をあけると、健一は尿臭漂う敷布団の上でミイラのように横たわっていた。 そして、か細い声でつぶやいた。
「このまま死なせてくれ」
解説
症例には物語としてやや誇張したところがありますが、典型的な大うつ病のケースです。 大うつ病は、人生における深刻なイベントが引き金となって、長期にわたって強い抑うつ症状が持続するのが特徴です。
人生では嫌なことつらいことはたびたび訪れます。 そのときは誰だって気分が落ち込んだり、悲しくなるものです。 しかしながら、ほとんど場合、「生き延びたい」という欲求が次第にまさってきます。 大うつ病では、この生物としての原始的な修復メカニズムが破綻します。
それでは、自然に回復する抑うつ状態といわゆる大うつ病とを区別する点はどこでしょうか? まず我々が注目するのは、症状の時間的な性質です。 大うつ病では、以下のような特徴があります。
- 症状に日内変動が乏しい
- 数週間以上という長期にわたって持続する
次に、注目するのは、その症状の中身です。 特に医学的に重要な症状は、以下の2点です。
- 顕著な身体症状
- 食欲低下による衰弱
- 強い不眠
- 無動
- 死にたいという気持ち(希死念慮)
これらが重要なのは、いずれも生命に危機が及ぶからです。 つまり、最悪の場合には衰弱死あるいは自死という結末をもたらします。 そのため医学的な介入が不可欠となります。
ところで大うつ病の基準に該当しない場合、「そのうちよくなるだろう」といって放置してよいものでしょうか? それは違うと思います。 中等度の抑うつ症状であってもそれが必ず回復するかどうかは経過を追わないとわかりません。 また、何度も繰り返しストレスが加えられると、例え軽症の抑うつ症状であっても、どこかの時点で重症化します。 どんな人間にも「これ以上は耐えられない」という限界はあるのです。 健一のケースでも、妻の死はなんとか乗りこえられたようですが、その数ヶ月後に突如としてやってきた一人娘の死には無力でした。 このため、仮に大うつ病でなくても、しばらくのあいだ経過を追うことには重要な意味があります。
治療について
残念ながら健一のようなケースでは、 もはやクリニックでの外来診療では対応できません。 定期的な受診は期待できませんし、自宅にて自殺の危険があるからです。 すぐに入院を受け入れてくれる精神科病院を探して、経過を記した紹介状を発行します。
入院の目的は、1) 生命の保全と 2) うつ病からの回復です。 入院直後は 1) の生命の保全が最優先となります。 特に生命に切迫した危機をもたらす栄養障害と希死念慮への対処が急務です。 そのため点滴などで栄養を補給したり(経管栄養)、自殺しないように身体を固定する(身体拘束)などの強制的な処置がとられることもあります。
うつ病からの回復には、主に抗うつ薬が用いられます。 ただ抗うつ薬を飲んだからといってすぐに元気になるわけではありません。 抗うつ薬は、1) 症状の軽減化, 2) 持続期間の短縮, 3) 再発予防といった補助的な効果にとどまるのです ( Prevention of major depressive disorder relapse and recurrence with second-generation antidepressants: A systematic review and meta-analysis , Evidence-based guidelines for treating depressive disorders with antidepressants: A revision of the 2008 British Association for Psychopharmacology guidelines )。 昨今では抗うつ薬の効用自体を疑問視する論者 ( Antidepressants and the Placebo Effect ) もおり、その効果を過信するのは禁物です。
なお健一のような重篤な症例では、電気けいれん療法も検討されなければなりません。 電気けいれん療法は、抗うつ薬よりも安全で迅速な効果をもたらすことが研究で示されています ( Efficacy and safety of electroconvulsive therapy in depressive disorders: a systematic review and meta-analysis )。 なお宮城県内で電気けいれん療法を実施している病院は、東北大学病院のみのようです。