架空の症例(エピソード4)
2018年03月12日
エピソード4 「やっぱり俺は、天才だ」
症例
健太、38歳男性。大学教官。 その妻M穂が、疲れ果てた表情でクリニックを訪れた。
夫の健太はM穂の3つ年上で、大学院時代の先輩だった。 二人は新入生歓迎会で出会い、一目で恋に落ちた。 健太は明るく朗らかで、M穂は一緒にいると楽しかった。 よく教授の物真似をして笑わせたり、休みの日には健太の車で岩手や青森の奥地までドライブに出掛けた。 わずか1ヶ月ほどの熱烈な恋愛期間を経て、二人は結婚した。
ところが結婚して5年ほど経つと、M穂は夫の気分に波があることに気がついた。 陽気でおしゃべりな時期と、無口で塞ぎこんでしまう時期があるのだ。 元気なときは夜通しで仕事を続けたり、学生のころのようにM穂を遠方までドライブに連れだしてくれた。 ところがしばらくすると、健太は次第に怒りっぽくなることに、M穂は気付いた。
半年ほど経つと、今度は逆に元気がなくなってしまう時期が来た。 動作は緩慢で、口調も重苦しくなった。 朝方はなかなかベッドから起きあがれず、「体が鉛のように重い」と言って大学を休むこともあった。 M穂は健太の体を心配して、いくつか病院を受診したが、どこの病院でも「異常はない」と言われた。 ただ最近1年ほどは、そうした気分のムラがないことに、M穂は安堵していた。
今から遡ること、1ヶ月ほど前のことだった。 「教授から『論文の数が少ない』と嫌味をいわれた」と、健太がぼやいた。 健太は教官として採用されたばかりで、「大学をクビになるかも知れない」と強い危機感に襲われた。 それからというもの、徹夜で論文を書く日々が続いた。 執筆がはかどってきたのか、妙に機嫌がよくなる時期があった。 数週間前のこと、突然、健太が茶髪に染めて帰宅した。 M穂が唖然とした顔で出迎えると、「なんだよ、文句あるのかよ」と不機嫌に言い放った。 その翌週には、薄給にもかかわらず外国製の高価なバイクを購入してきた。 金ぴかのバイクを見てM穂が眉をひそめると、健太はイライラして「オレが稼いできた金だろ」と大声で怒鳴った。 それから数日のあいだは食事も睡眠もほとんどとらず、みるみるうちに痩せこけてきた。 ただ二つの目だけは、爛々と輝いていた。
最後にM穂は、昨晩秘かにICレコーダーで録音したという健太の肉声を聞かせた。 大声でまくしたてる健太の声が、小さなスピーカーから割れんばかりに響いてきた。
アイディアがマグマみたいに次から次へと湧きでてくるんだよ。
まるで地球のエネルギーだね。
地球といえば、温暖化。ホッキョクグマだ。
『寝てるか』って? そんな無駄なことするわけないよ。
だって、眠るってことは死んでるのと同じじゃあないか。
『死は眠りにすぎぬ』っていうだろ。ハムレットの台詞だよ。知らないのかい、シェイクスピアのハムレットだよ。お前、教養ないねえ。
オレは生きたいんだよ。一瞬たりとも無駄にしたくないんだよ。
だいたいね、俗物が多すぎるんだよ。日本は。
日本といえば、少子化。これも結局はね、日本人がセックスしないからだよ。
オレなんてね、性欲がみなぎって精力が体からこぼれ落ちそうだよ。
そうだ、いいこと思いついたぞ。ユーレカ。
この溢れんばかりの精力をつかえば、日本の少子化に歯止めをかけれるんじゃないか?
女は子どもを孕むと1年近くは使い物にならねえが、オレは1日何回でもOKだ。つまり生殖も並列処理が可能だな。
オレのことを、生殖スパコンって呼んでくれ。
やっぱりオレって天才だな。
(甲高い歌声で) So lets start giving,,,
解説
双極性障害をテーマとした症例です。 双極性障害は、以前は躁うつ病と呼ばれていた病気です。
病気について
双極性障害では、躁病相とうつ病相がくりかえし出現します。 躁病相は、以下のような症状が特徴です。
- 多幸感、爽快感
- 活動性の亢進
- 不眠
- 逸脱行動
- 食欲低下
- 易刺激性、易努性
- 誇大妄想
- 観念奔逸
適度な多幸感や爽快感は、本人や周囲にも楽しい雰囲気をもたらします。 活動性の亢進も、ある程度までは、本人の能力を高めてくれるでしょう。 ただ何事にも限度が必要です。 躁病相では、病状が悪化すると刺激に対しても過剰に反応するようになります(易刺激性)。 その結果、些細なことでイライラするようになります。 しかもその怒り方はしばしば尋常ではなく、四六時中どなりちらすなどの異常な行動に発展することもあります。 さらに症状が強まると誇大妄想や観念奔逸などの病的な傾向も明らかになります。 観念奔逸とは、考えが次から次へと浮かび、話題の方向性が変わることを意味します。 一連の症状は、健太にも見られています。 このレベルになると、治療が必要です。
一方でうつ病相では、抑うつ症状が出現します。 これらの症状は、いわゆる大うつ病と瓜二つです。
- 悲哀感
- 意欲減退
- 食欲低下
- 不眠
- 希死念慮
それぞれの病相は、たいてい数ヶ月ほど持続します。 そしてこれらの病相の間には、症状がおさまって健常に戻る時期があります。 これが、他の精神疾患とは大きく異なる、双極性障害の際立った特徴です( 臨床精神病理学序説 ) 。
全人口の約1%程度がこの病気にかかると言われています。 適度な躁病相では人並み以上の能力を発揮するため、歴史上の著名人のなかにも双極性障害の方がいます。 有名なところでは第2次世界大戦で活躍したチャーチル首相です。 また感情の起伏が激しくなるので、芸術家のなかにも双極性障害であったのではないかと言われる人がいます。 ゲーテやベートーヴェンは、その生き方や作品の内容から双極性障害が疑われます。 また北杜夫は、自ら躁うつ病であることをエッセイのなかで記しています。
病気の生物学的な原因はまだ判明していません。 ただ一卵性双生児での研究で50%以上という高い一致率(片方が病気になったとき、もう片方も病気になる割合)を示すことから、遺伝的な要因が少なからず関与していると考えられています( Family, Twin, and Adoption Studies of Bipolar Disorder , Genetics of bipolar disorder ) 。
治療について
治療は、気分安定薬を主体とした薬物療法が中心となります ( 臨床精神神経薬理学テキスト ) 。気分安定薬とは、気分が高揚したときはそれを抑え、気分が沈んだときは持ち上げてくれる作用をもった薬のことです。 焦燥や興奮が強い場合には、抗精神病薬も補助的に使われます。
分類 | 一般名 |
---|---|
気分安定薬 | 炭酸リチウム |
気分安定薬 | バルプロ酸 |
抗精神病薬 | オランザピン |
うつ病相でも使う薬はおおむね同じです。 うつ病相のときに抗うつ薬で抑うつ気分を改善すればいいのではないか、と考えるかも知れません。 しかしながら、双極性障害のうつ病相には抗うつ薬はあまり効果がないだけではなく、躁転(躁病相に移行すること)のリスクがあるとされています。 したがって、双極性障害に対する抗うつ薬の使用には慎重であるべきだという意見が多数です。
なお、この病気で高い確率(80〜90%)で再発します。 特に健太のように躁症状の程度が強い場合や、何度もエピソードを繰り返す場合は、高い確率で再発することが予想されます。 そのため、病状が改善したあとも内服を継続しながら定期的に通院することが大切です。